特集●日本のものづくり
自動車産業におけるものづくりの技術
園部 裕
[自動車ジャーナリスト]
航空機技術を継承した自動車技術
日本の本格的自動車時代、モータリゼーションは、第2次大戦のあと日本経済の復活とともに始まった。第2次大戦で必要とされた、航空機、各種車両などの開発技術者が戦争終了で仕事を失い、その技術が平和産業に向けられたので、日本の民需工業技術は急速にレベルを上げることになった。
そのなかでも、航空機の技術が自動車開発技術に多くの遺産をもたらした。日本の自動車産業は、日本最高の技術者の英知によって第2次大戦後に再スタートした。航空機技術の優秀な技術者が「自動車産業」で活躍の場を与えられたのである。
同時に、戦後の日本経済は輸出産業を育成しなければならなかった。しかし、当時の日銀総裁は「日本に自動車産業は必要ない、自動車はアメリカから買うほうが安くて品質が良い」と言い放った。
だが日本の産業人は自分たちの技術に自信があった。第2次大戦後の日本の復興はドイツとともに「不死鳥」に例えられるが、不死だけではなくて、日本を一流の経済・工業大国に成長させた。そして、自動車産業、それを支えた自動車技術が日本経済成長の主役であったことは言うまでもあるまい。
欧米に20年以上遅れた「乗用車技術」
今回のテーマは「自動車産業におけるものづくり技術」。(社)自動車技術会が『日本の自動車技術180選』というわが国の特筆すべき自動車技術を挙げているが、そのなかから私なりに、日本の自動車技術について評価してみたい。
自動車技術は、1920年代あるいはそれ以前から、発明家、篤志家によって細々と黎明期を過ごし、30年代から近代産業、または国策としてスタートした。だが国際的水準に成長したのは50年代以降である。
ヨーロッパでも、第2次大戦後はモーターサイクルが復活、次に「カビネンローレン」(屋根つきスクーター)に発展して国民の交通機関となった。多くの自動車メーカーは、戦前型のモディファイ型の乗用車を復活させ、50年代の半ばから戦後型モデルが登場した。
日本の乗用車開発はヨーロッパ車より数年の後発である。
アメリカのビッグ3は、当時ヨーロッパ風の小型車には無関心であった。空前の好景気で国内需要だけで手一杯。大型の快適な乗用車が求められていた。アメリカ人はアメリカの乗用車、自動車が世界一と考えていた時代であった。
“純国産”乗用車技術の台頭
さて、40年代の日本の乗用車技術は、欧米よりも20年以上遅れた。自動車技術に至っては50年遅れ説もあるほど。それが国際的評価であった。
しかし、日本の戦後型乗用車は突然、爆発的に新技術を発表するようになる。
47年、トヨタは「トヨペットSA型」を発表した。それまでの乗用車の常識であったラダー(はしご)型フレームはなく、バックボーン型シャシー。VWのシャシーを前後逆にしたような構造である。重心が低く、サスペンション(懸架装置)の自由度も大きく、4輪独立懸架、日本の乗用車の未来像の一端を見せてくれた。
サスペンションは伝統のリーフスプリングである。もっともアメリカのフォードも48年型まではリーフスプリングで前後リジットアクスルである。
当時のトヨペットのエンジンはサイドバルブ1000cc、27馬力、最高速度87km/h。発想は最新のものだったが、当時の日本では道路も含めこの乗用車を受け入れるインフラはなかった。
当時高校生であった私は、自動車販売店のメカニックに頼み込んで、数百m運転させてもらった。もちろん、「動いた!」という記憶しかないが、今日まで運転した自動車の台数、約7,000台のうちの記念すべき1台である。
47年にこの先進的な乗用車が発売された事実を忘れてはならない。長年、トヨタは“保守的”自動車メーカーと思われてきたのは大きな間違いである。
電気自動車も47年の「タマ電気自動車」を忘れてはなるまい。ジュニアー、セニアーの2車種が発売されて、バッテリーメーカーが社用に使用していた。このクルマも高校生のときに運転したことがある。エンジン音がしない不思議な印象が記憶にある。重量は1トンを超えた。日本の街に電気自動車のバスが走った時代である。石油資源がなかった日本の50年前後の技術として、電気自動車の実用開発があったのだ。
海外メーカーから技術供与
50年代、通産省はヨーロッパの乗用車メーカーの技術導入を考えた。日産が英国「オースチン」、いすゞは英国「ヒルマン」、日野はフランス「ルノー公団」と組んで最新ヨーロッパの技術指導を受けることになった。
最初は「ノックダウン」で、徐々に部品を日本生産に切り替えて、完全国産化への道を歩んだ。
日産はオースチンから「セドリック」へ進化させ、純国産車へと歩む。ヒノ・ルノーは4CVと共通のリヤエンジン「コンテッサ」への進化となった。いすゞも「ベレル」という乗用車を誕生させた。
日本の文化「軽自動車」
一方、富士精密工業は外国メーカーの技術に頼らずに、52年に「プリンス」を発表した。1500ccで、当時の「小型車」規格の乗用車である。
そして、軽自動車が日本には存在する。
昭和24年に制定された最初の軽自動車の規格では、四輪車は予想されていなかった。原動機は100〜150cc以下、長さ2.8m、幅1m以下というのがその規格だった。
しかし昭和26年の運輸省令で二輪と二輪以外のクルマに分けられて、幅1.3m、長さ3m、エンジンは360ccになり、小規模工場が独創的な軽自動車を誕生させた。
そして55年、スズキ自動車から「スズライト」が発売された。前輪駆動であることも大きな話題であった。日本の量産乗用車では初めてのことだ。ただし本格生産は60年以降となった。