高齢ドライバー教育の課題
〜高齢運転者教育の目的と手法〜
さて、そうした状況のなかで、どのような高齢運転者教育が望まれるのだろうか。高齢者に受け入れられ、喜ばれ、事故防止に役立つ教育とは、どうあるべきだろうか。
実のところ、世の中に、進んで交通安全教育を受けたいと思う人は少ない。とりわけ、十分な運転経験を持ち、これまで大過なく過ごしてきた高齢者の多くは、こと改めて教育を受ける必要性は感じていないと思う。ましてや、それらの教育が、すでにさまざまな形で、何度も受けさせられてきた講習などと同様のものであり、ほとんど知っているつもりのことを繰り返し聞かされたり、こと改めて自分の運転技能を試されるようなものであったとしたら、負担であり、ときには苦痛に感じられる心配すらあるのではないだろうか。
そこで、まず、問題となるのは、教育の意義と目的である。その教育が、本当に高齢運転者の安全向上に役立ち、その後の生活の安心と充実に寄与するものであることが不可欠なのだ。事故の危険性の大きい高齢者に交通安全意識を高め、自重を求め、できれば運転の自粛を促すことで、交通事故多発傾向に歯止めをかけられるのではないだろうかといった思惑が見え隠れするようでは、受講する人たちが喜んで受け入れてくれるとは思えない。
改めて言うまでもないが、教育とは、当人の能力を引き出し、その向上を図るためのものであるべきだろう。そのためには、当人の抱える問題の解決に寄与することが欠かせない。特に、高齢運転者教育の場合は、新たに何かを教え込もうとするよりは、加齢がもたらす不具合を修正し、心身機能の低下を補っていくための道筋を示せるようなものであることが望まれる。高齢者に対する安全運転指導は、あくまでも、加齢が原因の運転上の問題を取り除き、その先も安全に運転を続けていくために役立つものでなければならないと思う。これは、まさに高齢者福祉の一環にほかならないのだ。
そう考えれば、指導のあり方もおのずと見えてくるのではないだろうか。高齢者に、まだ上達途上の若年運転者などと同様の訓練を課したり、事故の恐ろしさや運転マナーのイロハを説く必要性は低いと思う。
もちろん、何歳になっても、折に触れて安全運転の初心に帰ることは大切だし、人生の先輩として、若い者に恥じない運転マナーを発揮し続けてくれるよう促すことは必要だろう。高齢者に対する安全運転教育が、そのきっかけになることは大いに望ましい。しかし、そのために必要な教育は、言い聞かせたり教えたりすることではなく、問題点を本人に気づかせ、自ら改善の必要性を認識できるようなものであるべきではないだろうか。
そのために絶対に不可欠なのが、加齢による自分自身の心身機能の変化を正しく把握してもらうことだと考える。年齢を重ねるとともに、自分の安全運転能力に、どのような問題が生じてきているかを的確に掴んでもらうことこそ、肝要だろう。そのうえで、それを補い、可能なかぎりの改善を図るために何が必要かを、納得できるような形で助言していく教育であってこそ、高齢者も喜んで受け入れてくれるのではないだろうか。いわば、健康指導などと同様の発想が必要ではないかと思うのだ。定期的に健康診断や、それをもとに病気の予防や健康増進に役立つ助言が得られる健康教室や健康相談の催しに多くの人が進んで参加するのも、明らかにそれが自分のためになると実感できるからにほかならないだろう。
言い換えれば、個々の高齢者が抱える安全運転上の問題点に気づかせ、その解決に当たるような教育こそが求められるのである。こうした教育なら、折に触れて繰り返し受けておきたいと思う人も多いのでないだろうか。多くの交通安全教育の悩みであるマンネリ化や形骸化を心配することもないに違いない。
運転指導なども、こうした視点に立ったものであることが望まれる。単に、安全運転の基本に立ち返らせたり、一般論的な防衛運転や危険予測の方法を説くだけではなく、なぜ、安全確認がうまくいかないか、何が運転操作を狂わせているかなど、当人の心身機能の低下がもたらしている運転上の不具合を正しく理解してもらい、どうやってそれを補うかを具体的に助言していくといった指導が求められるだろう。指導の内容が、直ちに、受講した高齢者の運転の改善に結びつくようなものであることが、高齢運転者教育には何よりも大切なのではないかと思うのである。
何歳になっても、学ぶ気持ちを忘れてほしくはない。しかし、高齢者は、無理やり何かを教える対象ではないような気がする。高齢運転者の多くは、いわば、自動車交通社会の先輩である。高齢運転者を「危険運転者扱い」するのではなく、その長い経験を尊重し、高齢者に対する敬意を忘れず、本当に安全に長生きしてほしいという願いを込めた教育でなければ、真の成果を期待することはできないのではないかと思うのである。
今後の課題
〜長寿社会の交通安全のために〜
しかし、こうした教育も、世の中に、高齢者を温かく受け入れ、守ろうとする態勢が整っていなければ生かされない。交通違反が日常化し、慎重に行動しようとする高齢者をせき立て脅かすような車の流れが正されないかぎり、せっかく受けた指導を実践することもむずかしいからだ。
実のところ、高齢者の交通事故の多くは、非高齢者との間で起こっている。いわゆる高齢者と非高齢者の判断や行動のミスマッチが事故を招いていると言ってよいだろう。
多くの場合、そのミスマッチは、高齢者が非高齢者に合わせられないことによって生ずると考えられがちだが、むしろ、制限を超えた車の流れや、優先関係を無視した気ままな行動など、規則を逸脱し、秩序を欠いた交通社会の実態のほうにこそ原因があると考えるのが正しいのではないだろうか。
つまり、高齢社会にふさわしい交通社会の環境が整っていないことこそが、高齢者事故多発の最大の要因だと思うのである。交通安全教育で学ぶことと交通の実態との間に大きな隔たりがあり、教育の成果を著しく損なっているといった状況を、なんとしても改めていかねばならない。これは、子どもたちの交通安全教育を形骸化させている最大の要因でもあるのだ。
その意味では、高齢者事故防止のためには、高齢者自身よりも、より若い層の人たちに対する教育を徹底することのほうが先決であると言ってよいだろう。交通違反やマナーを欠いた交通行動に対しても、もっと厳しい目が向けられるべきだ。規則や、本来あるべき姿と交通の実態との間に乖離があり、それを正そうとする努力が怠られているかぎり、本質的な交通事故防止も交通社会の進歩も望むべくもないからである。決して好ましいとは言えない交通実態に慣れきり、それが当たり前のことのように感じられているかのような世相を断ち切れるかどうかに、わが国の交通安全問題の未来はかかっていると思うのである。
もちろん、事は教育のみに限った問題ではない。道路環境や交通安全施設も、さらに高齢社会に則した改善が図られてしかるべきだろう。高齢者の視力や視野を考慮した信号機や標識の設置位置の見直しなども必要だし、横断歩道ひとつをとっても、歩行速度が低下した高齢者が安心して渡れるよう、形状や信号サイクルの設定などに、もっと工夫が加えられてしかるべきだと思う。
その意味では、バリアフリー化の推進などは大いにけっこうである。しかし、せっかくのバリアフリーの対策が、心ない人の無神経な行動によって、所期の成果を発揮できずにいるケースも少なくないように感じる。そればかりか、人間が新たなバリアを作り出していることも稀ではない。そうした面での認識を深めるための教育も火急の課題と言えるだろう。
自動車自体にも、もっと高齢者の使い勝手を考えた工夫を期待したい。自動車を販売する段階でも、ただユーザーの希望に応じるだけではなく、運転者の心身機能に見合った車種選択を助言することも忘れてほしくない。これも、大切な教育のひとつではないだろうか。
高齢者が安心して関われる交通環境は、だれにとっても安全なものであるはずだ。規則が大切にされ、皆がお互いを守り合いかばい合おうと考えるような交通社会なら、高齢者を事故に追いやる危険性ははるかに小さくなるに相違ない。高齢運転者教育は、そうした全世代にわたる本格的な交通安全教育(単なる事故防止指導ではなく、望ましい交通社会人の育成を目的とした真の教育)の延長線上に位置つけられてこそ、成果を上げられるものであることを忘れてはならないと思うのである。
それに、高齢者自身に対する教育そのものも、もっと早い段階から実施することを考えていくべきだろう。運転に関わる心身機能の加齢による変化は、ものによっては40歳代くらいから始まっていると考えてよいようだ。比較的若い段階から、そうした自分の心身機能の変化を把握し、運転方法の修正や運転能力の維持向上を心がけることが、高齢期に達してからの安全を高めるうえで役立つことは間違いないと思うからである。それに、若いころの運転上の弱点は、加齢とともに増大し、顕在化していく危険性が高いとも言う。将来を考えて早めの改善を図ることが、高齢者事故の防止には何よりも大切ではないだろうか。
これらは、まさに、生活習慣を正すことで、老後の健康維持を図る健康管理の重要性と同じである。それに、高齢に達してからにわかに交通安全教育を受けさせられるのと比べて、若いころから継続して運転適性検査などを受け、必要な対策を講じておくことのほうが、はるかに有効な事故防止の構えと言えるだろう。
ともあれ、高齢運転者教育が、単に当面の事故抑止のための対策にとどまっていたのではもったいない。皆が安全に気持ちよく道路を分かち合っていけるような交通社会の構築をめざした、真の教育が進められていくことを期待してやまない。
(やはし のぼる)