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「BIKE LOVE STORY」受賞作




最 優 秀 賞

作品タイトル
「娘に贈る父の想ひ」

燒リ 雄二 さん

(あらすじ)
 受験生の長女 娘の合格祈願のために、お正月の1月3日に、さいたま市から太宰府天満宮までバイクでお守りを買いにいくという1,130kmの旅のストーリー

(本文)
 2014年1月2日12時過ぎ、寝転びながらテレビをボーッと見ていた。特番の中継で「湯島天神で1kmの行列」という文字とアナウンサーの声。「そうだ、娘も受験生だった」少しだけ高望みした公立の第一志望を目指している受験生の父親として、この1年間、自分は娘のために何か出来ただろうか… 受かって欲しい、頑張って欲しいという思いと同時に「湯島天神」「行列1km」その二つのキーワードが頭の中でユラユラと浮遊していた。

「そうだ、お守りを買いに行こう」

 神様を信仰しているわけではないけれど、困った時の神頼み。
「高望みした公立高校」に挑むとき、娘には神様のお力添えが不可欠だ。それなら学問の神様、菅原道真は一体何処にいて、都合の良い神頼みの信者たちに手を差し伸べてくれるのであろうか。手元にあったスマホでサクサクと調べてみた。「太宰府」、歴史と地理の教科書でしか見たことがない地名だった。ここは埼玉県さいたま市。

「そうだ、太宰府へ行こう」

 現実的な問題を考えた。季節は冬。しかも厳冬である。東京の最低気温は-3.1℃。気軽に車で行くとなると、東名、伊勢湾、東名阪、新名神、名神、山陽、中国、九州…いったいいくつの自動車道を経由して、凍結や降雪の危険はないのか?と考えながら、スマホのナビゲーションアプリに聞いてみた。電車だと9時間42分で到着するらしい、車だと14時間42分と1,130kmの文字。もちろん無給油、休憩なしの時間である。怖気付いたが、なんとなく参考までに天気を調べた。1月3日、4日なら全ての地域で晴れの予報。
「おー神よ!なんで味方しちゃうのよー」と同時に険しい勉学の道のりを歩んだ娘のために、たかが1,130qの険しい道を歩めない父はいかがなものか?と独りよがりの自問自答。さて、何で行くか。飛行機も満席、鉄道も・・・

「そうだ、バイクで行こう」

 夕方になるにつれて霞みの向こう側にあった思いは、決断に変わっていた。朝4時に出てとりあえず西へ走ってみよう。どこまでも西に走ってみよう。その日は早めに就寝し、3時に起床した。当時の相棒であったNC700Xのトップケースに1泊分の着替えとレインコートを入れて、ナビを「太宰府天満宮」にセットした。あまりにも遠すぎて到着時間は表示されない。どうやら所要時間が12時間を過ぎると表示されないらしい。
「ぜったい、無事にここへ戻ってくる」

 1,130kmの長旅は、さすがに不安がいっぱいだ。ツーリングというお遊びではない。「命懸けの挑戦」そんな思いと娘の合格を祈るやさしい気持ちを踏まえながら、不安な気持ちが風船のように膨らんでいく。いくらプロテクタージャケットに身を包んでいても高速で転倒したらあの世行きになることくらいはライダーであれば知っている。

 早朝の静寂の中、暖気運転をする2気筒のエンジンの音だけがドコドコと響いている。いよいよスタート。見送りもいない孤独で過酷な旅は始まった。
首都高速さいたま線のETCを通過して孤独な「西遊記」の旅は始まった。ガンダーラの歌を口ずさみながら何も考えずに走ってみた。SNSに記録しながら旅を続けようと考える余裕はあったが、寒さの余りに九州までたどり着けるイメージは湧いてこなかった。
 何も考えずにひたすら走り、最初の休憩は足柄SA。お正月、夜明け前の2輪車駐車場にはバイクなんて1台も止まっていなかった。

「寒すぎる。寒すぎるよ」

 サービスエリアの建物内には、車から降りて小休止を楽しむ、色鮮やかなジャケットや帽子の家族連れやカップルで溢れていた。厳冬を走ってきた孤独なライダーの心はより一層孤独の渦に飲み込まれていった。暖かい施設の片隅で無料の温かいお茶を両手で包みながら、もう一人の弱気な自分が囁いた。

「太宰府。着けるのかなぁ」

 寒さと不安との戦い。娘は苦しい1年を過ごしてきたに違いなかった。学校の先生に諦めろと言われ、塾の講師には無理だと言われ、友達には大丈夫なの?と囁かれながらの決断。こんな時に頼るのはやっぱり神様。
そんな思いが、寒さも孤独も忘れ前向きな気持ちにしてくれた。いざ、太宰府へ Go west!
ダメなら伊勢神宮、ダメなら北野天満宮、だめなら…無理無茶をせぬよう途中で逃げ道をいくつも考えていた。知っているいくつかの地名を経て、大阪を過ぎた。広島まで長かった。日が暮れるころに関門海峡を渡ることが出来た。こんにちは九州。
途中、SNSでUPしながら旅をしていて友人たちの応援があったから走り続けられた。家を出てから、300km弱毎に給油休憩をしながら、ひたすら走り夜の19時半に福岡市内のビジネスホテルにたどり着いた。ビジネスホテルの小さな浴槽にお湯を溜めて芯まで冷えた体を沈めた。

「生きてるって素晴らしい」

 命懸けの挑戦の前半はとりあえず終わった。ここは九州。1,130km先に愛する家族が待っている。
 翌朝7時に出発し、8時前には太宰府付近に到着したが、お正月ということで、駐車場までの道は初詣の参拝客で大渋滞。バイクの機動力を最大限に活かしながら何キロもの 渋滞を10分程度で駐車場に到着した。駐車場では係員のオジサンから「大宮?埼玉の?」と驚かれた。まあ、ライダー本人も、この現実に驚いているのだから当たり前か。
 初詣で賑わう参道を黒いバイクジャケットの上下を着込んだ怪しい男が、名物の梅ヶ枝餅を頬張りながら雑踏の中に紛れ込み、束の間の九州観光を楽しんだ。神様の前で娘の合格を祈り、一番ありがたそうな巫女さんを探してお守りを買った。食事もして1時間30分程度の観光タイムは終わった。9時半、折り返し地点を出発。ナビを自宅にセットし、無事の帰宅を誓いながらスロットルを開けた。
 再び、前夜に渡ったばかりの関門海峡を後にして、ひたすら走る旅が始まった。バイクで走っていると孤独のせいか考え事が多くなる。幕末の長州、薩摩、土佐の偉人たちはどうやってこの距離を移動したのか。答えの出ない妄想をしながら暴走した。広島SAでは、焼牡蠣を食べた。帰りは行きほどの必死さはない。大都市圏に近づくにつれて渋滞が目立つようになってきた。大阪のUターンラッシュでは30kmの渋滞。名古屋でも20kmの渋滞。すり抜けは危険が伴う。娘の元気な顔を見たいから、お守りを遺品にはしたくないから…いろんな想いが安全運転を心がける。30kmの渋滞は心身疲弊して、渋滞を脱出したい一心で、かなりの距離を追い越しして走った。

 静岡を抜けた頃には、すでに1月4日の0時を過ぎていた。寒さも、精神的にも追い詰められる。寒さと疲労で心が折れそうだった。マッチ売りの少女のように、笑顔で合格発表を見る娘の顔を思い浮かべては消えていった。深夜に入り新たな敵が出現した。
睡魔が忍び寄って来て、眠さとの戦いも始まった。シールドを開けても眠くなるような強敵だった。最後は休憩場所毎に休憩するほど、心身が悲鳴を上げていた。
 午前4時半、様々な敵と戦いながら、ありがたい経典ではないが、様々な想いが込められたお守りと共に無事に生還した。

 脱いでも、ずっとヘルメットをかぶっているような味わったことがない感覚の中で、仮眠をして翌朝、娘にお守りを手渡した。満面の笑顔で受け取ってくれた。
「がんばれ」しか言えなかった。娘は一言…

「ありがとう」

 その言葉が聞きたかったから往復2,260kmの無茶で無謀で過酷なバイク旅をしたのかもしれない。娘のためではなく、父の自己満足だったかもしれない。飛行機で行けばよかったのかもしれない…
 そう、俺は、ただ娘の「ありがとう」が聞きたかっただけなんだ。

 2014年3月10日 XX高校、娘は自身の受験番号を掲示板に見つけた。

「おめでとう」

以上


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優 秀 賞

作品タイトル
「はじまりは、いつもバイクから」

水品 誠一郎 さん

(あらすじ)
人生の転機には、いつもバイクがあった。希望と夢にあふれた22歳の春。初めての原付免許。筑波山と50ccのバイクとの生活。そして29年後の、意気消沈しての関係会社出向は51歳の春。悪戦苦闘しての普通自動二輪免許と223ccのバイク。
希望を取り戻した先輩ライダーの一言とバックミラー越しの富士山。そして3度目の転機は56歳の春。400CCのバイクと赤城の山。
そう、人生の転機には、いつもバイクがあったのだった。

(本文)
 人生の転機には、いつもバイクがあった。
 東京は下町の親元を離れて、一人暮らしがはじまったのが1979年、22歳の4月。筑波山のふもと、だだっぴろいキャンパスの外にアパートを借りた。近くにスーパーはない。自転車屋があるだけ。足は中学生のときから乗っている自転車。キャンパス奥の研究棟まで晴れた日には、気持ちよく30分。しかし、急ぐと汗が出て息苦しい。雨が降ったらバス。田舎のバスは何時来るともわからない。
 やっぱり車の免許が要るのかな?
 下町育ちだから、車は不要と信じていた。だから免許はない。道路は遊び場所と心得ていたから、そんな子供たちの跳梁する街で、車の運転なんかしたくもない。ところが田舎に来てしまった。銀行のある土浦まで自転車で行ったら二時間かかった。
 やっぱり車の免許を取るか?
 授業に出てみたら一日に二本のレポートが課せられた。こりゃ教習所に行く時間がない。そして老自転車がついにダウン。自転車屋に行ってみるとバイクが並んでいる。出前持ちのバイクやら、ダックスフンドのような足の短いバイク、おもちゃのようなバイク、そして普通のバイク。みんな原付バイクと言うらしい。店の親父に聞くと、原付バイクは警察で試験を受ければ免許をくれるという。
 そうだ、バイクの免許を取ろう。
 試験はお手のものである。すぐに免許をくれたので、ダックスフンドを買おうとしたら、店の親父から東京まで帰るのならこっちが良い、と普通のバイク:ロードタイプを薦められた。50CC、4ストローク、5段変速の本格的原付バイクであった。
 で、どうやって乗るんだ?
 次の日の早朝、取説をポケットに、軍手をはめて、実家の親父からもらったヘルメットをかぶり、意気揚揚口笛吹いて乗り出した。キックスタートに30分。息も絶え絶えである。汗が目に沁みてきた。ようやくエンジンがかかった、と思ったら、ギアシフトに失敗してエンスト。これをまた30分ほど繰り返す。エンジン音が大きい。田舎だから余計に響く。散歩しているお年寄りが不信そうに見つめている。心臓がバクバクしている。こりゃダメかも。その日はあきらめた。まだニワトリが鳴いている時間だった。
 夕方に、自転車屋のメカニックのお兄さんから手ほどきを受けた。
 面白いように走る走る走る。
 翌朝も早朝から引っ張り出す。キック一発スタートできた。暗いうちに研究棟まで10分で行けた。これは楽だ。帰りは思い切って大通りへ出てみた。車がビュンビュン走っている。乗り出せない。後ろから女の子の車が恐い顔をして煽っている。右折ができない。本気で命からがら、遠回りしてアパートにたどり着いた。寝る前にありったけの神様仏様に感謝した。こんな日が何日も続いた。
 この原付バイクのおかげで気持ちが広がった。騎乗の坂東武者の気分である。
 将門を気取って、筑波山には何度も行った。さすがに50ccだから、晴れた日の気分の良さとは反比例に、上り坂は息苦しい。馬上天下を取るのも楽じゃない。
 夏には山林の中を蝉時雨ならぬ蝉雷雨を聞きながら汗を飛ばす。秋は紅葉のシャワーを浴びて筑波山に登る。冬はパス。春が来れば花の香りと養豚場の香りがブレンドされて押し寄せてくる。梅雨にはカッパを着ても、桶狭間の信長になった気分。
 また夏が来て、就職が内定した。もはや恐いモノは論文だけだ。
 夜の走行が多くなった。田舎の秋から冬の夜空はにぎやかだ。キャンパスの芝生の上で夜露が降るまで、星を見ながら論文の想を練って、明け方に帰る。バイクがなければできない芸当だ。
 夜明けに乗り出してはじめたバイクが、いつのまにか夜明けに帰る足になった。夜明けの空は変わらなくきれいだ。ニワトリも相変わらず鳴いている。
 実家に戻って都会勤務になるので、置き場所のないバイクはあきらめた。
 いつかは、今度は本物のバイクに乗ってやろう。

 それから30年近く経ってしまった。
 51歳の春、2008年4月に長野県の関係会社に出向、単身赴任となった。もはや都会に帰っての勤務はないだろうと、ふて腐れて、覚悟を決めた。
 そうだ、今度こそバイクに乗ろう!
 原付免許は失効している。伊那谷の自動車学校に、3月31日、赴任のその日に入校手続きをした。勇気凛々受付に臨んだら、係りのおばちゃんが説得し始めた。
 「悪い事は言わないから、その歳で二輪は無理です。四輪の免許にしときなさい」
 「申し訳ないけど、生活のための免許じゃなくて、楽しむための免許だから、二輪じゃなくっちゃ意味がない」
 押し問答が続いたが、二輪で押し切った。家族には話していない。

 はじめてのセルモータ、ひさびさのクラッチ、CB400のエンジンのにおい、おなかに響くエキゾースト、ギアチェンジの楽しさ、忘れていた走りの快感がよみがえった。
 単身赴任のアパートに戻り、シャワーを浴びると震えがきた。武者震いである。
 教習所はもちろん学科から始めた。二輪での学科教習生は一人だけ。みんな怪訝な目で見ている。なにしろ冬場はマイナス10℃以下になるところだ。
 教官が相変わらず四輪への転向を薦めてくる。「悪いことは言わないから…」
 実技教習の同期には部下の新入社員がいた。次の日には会社中に知れ渡った。
 「役員ともあろう人がバイクの教習ですか」とOBの爺さん。
 ひとの気も知らないで、余計なお世話だ。
 一本橋が鬼門だった。肩に力が入っているのがわかる。しかし、気持ちと筋肉とが連動していない。何度も落ちた。後ろを見ると、大型免許を受講している小柄な女性がゆるりと優雅に一本橋を超えていく。送迎バスを運転している教官がつぶやいた、
 「あなたより少し年上の方が二輪にトライしたけど、とうとうあきらめましたっけ」
 信州の遅い桜を散らすように、卒検の日は大雨。休暇を取っての一発勝負だ。雨が居直りをもたらし、ゆっくりゆっくり「かーごかごかごが・・・落ちないように・・・」。鼻歌が功を奏してクリアできた。万歳、しかし油断大敵。そしてフィニッシュ。
 「ずいぶん慎重でしたね。まあ、合格です」

 幕張の運転免許センターでの試験は余裕しゃくしゃく。普通自動二輪免許取得後、その足で自宅近所のバイク屋へ直行。雑誌で気に入り、実機を見て二度惚れしていた、223ccデュアルパーパスを購入。
 気持ちはもう信州の野山とあぜ道へ、元気一杯タッタカタ。
 そして納車の日も雨。家内には、水戸黄門の印籠よろしく免許を見せて、
 「バイク買っちゃった」、しばし沈黙、そしてため息、「なんでクルマにしなかったのよ?」
 (心の中では「アッシーになってたまるか」)51歳の抵抗だ。
 「お小遣いで買ってよ」、(「誰が稼いでいるんだ」)「ローンを組んだよ」
 翌日は千葉から伊那谷へ、相棒と凱旋走行だ。
 4時起きで、京葉道路から神田・市ヶ谷を過ぎ、ここで道に迷った。5時過ぎの赤坂御用地あたりを単気筒のエンジン音響かせて静寂を破り、眠そうに立っているお巡りさんににらまれて、四谷に戻り、新宿から甲州街道へ。中央道はおっかないから下道で行こう。
 相模湖の下り坂では自転車に抜かれ、笹子トンネルではトラックに追いかけられ、足が震えた。甲府盆地に向かう下り坂で、年季の入ったオフ車に乗ったライダーに止められた。道端に寄れというサインだ。なんかヘマしたっけ?
 「あのね、原付じゃないんだから、そう左に寄ることないよ。後ろから見ているとおっかなびっくり乗っているね。もっと車線の真中を走ってもいいんだよ。そのほうが安全だし、後ろの車も安心して運転できる」
 そうだった。騎乗の坂東武者はもっと胸をはって堂々乗ればいいんだ。
 甲府バイパスの車線の真中を走っていると、バックミラー越しに、きれいな五月晴れをしたがえ、白雪を残した富士山がくっきりと写っていた。胸を張って伊那谷に入った。
 人生の転機、第二の会社人生のはじまりも、バイクからだった。

 そして、56歳の春、2013年4月に、今度は退職金をもらって、群馬県の会社へ転籍となった。6年間で10,500Km走った相棒から、400ccのクロスオーバーに乗り換えた。
 春霞にゆらぎ、笑っているような赤城の山が出迎えてくれた。
 人生の転機、第三の会社人生のはじまりも、またバイクからだ。

以上


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優 秀 賞

作品タイトル
「私の「ニューバイクパラダイス」」

鎌田 郁夫 さん

(あらすじ)
私が初めてバイクを買った時から数えてもう35年の月日が経ちました。一人から二人、そして四人と家族が増えてバイクも増えました。結婚や転勤など人生の節目や岐路には いつもバイクが有りました。その度にバイクが支え、教えてくれたことを映画「ニューシネマパラダイス」の細切れフイルムの断片のようにつづってみました。

(本文)
 バイク人口が減っていることをとても「もったいない」傾向だと残念に思っている。バイクの魅力は人それぞれだろう、けれど残念ながら乗った体験の無い人にはその魅力 自体が想像出来ないだろうと思うのだ。私はバイクのおかげでどうやら一人前になれたと思っている人間なので、バイクが私に教えてくれた35年を振り返って書くことで、少しでもバイクの魅力が伝われば幸いに思う。それは映画「ニューシネマパラダイス」のように、バイクと過ごした場面の一コマ一コマに甘酸っぱくなつかしい想い出が溢れている。

−初めてバイクに乗った時−
 初めてバイクに乗る原体験、それがとても大事なことだと思う。私のあいまいな記憶のそれは、小学校で足に怪我をして先生に家まで送ってもらった時だった。足の包帯がむき出しのままの僕に、先生はバイクに跨がると「乗れ!」と言った。メッキが光る2本出しマフラーの青いバイクだったことと、先生の背中につかまって「こんなに倒れたら、また転ぶんじゃないか!」と緊張したことだけを覚えている。それはあっという間のジェットコースターみたいなものだった。その時、僕の頭には「かっこいいバイク」ではなく「先生はバイクに乗ると、とてもかっこいい」と記憶された。母親がとても驚いてお礼を言っていた風景もわずかに残っている。でもその先生は臨時で来ていた若い先生で、わずか2週間ほどで居なくなった。今では名前も顔も思い出せないのだけれど、いきなり後ろに乗せられて、手に汗握って帰った一瞬だけが、宙に浮いたパズルのひと駒のように残っている。

−初めてバイクを買った時−
 日本のバイク乗りにとって「どの年代を過ごしたか」の違いはとても大きいと感じている。3ナイ運動がまさに始まった時期。いわく「免許を取らせない・買わせない・運転させない」。ここでその功罪には言及しないけれど、私が通っていた高校でも実際にバイクの事故死は起きていた。けれどもそれはいわばもらい事故で、無謀運転をしていたわけではない。「乗せない」なら解決するのだろうか?それは「家から出るな」と同じ理屈だ。私はどうすれば克服できるかを教えるべきだったと思っている。バイクに乗るか乗らないか、その判断について回るのは親兄弟、親戚などからの強い忠告だろう「危ないからやめなさい」その言葉に従って今が有るのならそれも感謝すべきとは思う。
 九州から大阪に単身就職し晴れて社会人となった私は、給料が貯まるとすぐにバイクを買った。初めて自分でバイクを買い、そして公道を走る。その時「自立と自由」を手にした高揚感を噛みしめた。母親に電話で伝えると「気を付けて人様に迷惑かけないように」とは言ったが「乗るな」とは言わなかった。「バイクは危ないには違いないが、自分が運転しているものだ。歩道を歩いていても事故はやって来る。自分で決めることだ」と言った。今では息子もバイクに乗っているのでわかるのだが、そう口にはしていても親には大変な心労を掛けていたのだなとこの年になって申し訳なく思い、見守ってくれていたことに 感謝している。
 私はバイクに乗ることで、比類なきものを多く手に入れた。若い時代の様々なストレスは、バイクで走り回ることで常に前向きな活力に転換できた。それはただスピードのスリルで消し去ることでなく、一緒に走る仲間とどうすれば、安全に気持ちよく走れるか?旅行とスポーツが一緒になった娯楽だった。同時に安い維持費で通勤から買い物まで生活の道具としても欠かせないものだった。駐車場の少ない都市部では公共機関以外にバイクがどれだけ便利な足になるかを知っている人は少ないかも知れない。

−初めて彼女をバイクに乗せた時−
 転勤で東京に引っ越した20代半ばの私は、バイクが日常の足だった。通勤定期も支給されたが、1時間半もかけて電車を乗り継ぎ出社する間にバイクなら30分で到着出来てしかも頭はすっかり覚醒している。余計なお世話だが、今では規則でバイク通勤は認められなくなった。「危険だから」というおせっかいの裏には、看板に「事故」と言う不名誉な傷が付く時代と言うこともあるだろう。
 彼女は全くバイクやアウトドアと言った世界には無縁な人だった。けれども色んな縁が重なって、ツーリングに行くことになった。後日談だが彼女はその時「これほど安全に気を使って丁寧に飛ばす運転に、とても信頼できると思った」と聞かせてくれた。
 その後、彼女はバイクの免許を取りたいと言い出して、自動車学校に通い始めた。私は「最低限の運転技術が無ければ、バイクは車のように道路交通法だけ守れば乗れるわけではない」と、駐車場で「8の字」の補習と後ろに乗せてツーリング中は絶えず道路状況の判断とその対応などを、休憩のたびに「ああだ、こうだ」と話し合った。この時の考え方、ものの見方も後日彼女へのプロポーズにご利益があったらしい。
 結婚後、再び転勤で横浜に移動した時、娘の幼稚園への送り迎えや買い物、病院への通院と妻は駆けずり回る毎日だった。けれども100ccのスクータが妻の秘密兵器だった。車も有ったが駐車場待ちや渋滞で行列ばかりの日常を、幼稚園児の娘にヘルメットをかぶせ、周囲の奥さん方から羨望を浴びながらタンデムでスイスイ駆けずり回る。この時の原体験が娘には有るのだろう、送ってくれた寒い冬も雨の日も母親と一緒に濡れて帰ったのを憶えている。今では大学に通う歳になったけれど、私や息子の後ろに乗ってツーリングに参加している。

−息子がバイクに乗った時−
 今の時代、息子は車の免許を当然のごとく取ったけれど、バイクの免許は母親の勧めである。母親は「危ないと言う面はもちろんあるけれど、それは父親が居る間に教育でカバー出来るだろうし、むしろ自立するにはバイクは良い道具だ」と。私は20代前半に3度はバイクで空を飛んでいる(限定解除を境にその後30年近く転倒の経験は無いが)。妻も買い物途中に転倒で骨折しているが、今も晴れの日には125ccのバイクで颯爽と出勤している。息子もバイクに乗れば怪我はするかも知れない、けれど私の持論を妻も支持してくれる。「人生は自分で切り開け」である。
 息子は首都圏に引っ越す迄の半年程度で、みっちり仕込んだけれど見極めに出かけたツーリングでは、まだ私の眼には頼りなかった。けれども後は自分で磨くしかないだろうと送り出した。通学の足として中古の250ccを買ってやったのは通学定期より安いだけでなく「道具」以上の役割をバイクが果たしてくれる事を私が体験しているからだ。ただし、バイクの種類は私の一存でオフ系のモタードに決めた。都会での道具としてまた腕を磨く教材として、最も危険回避能力の高い車種を基礎訓練用にするために。
 最初は「カッコ悪い」と敬遠していたが、すねかじりの分際だから納得して乗って行った。1か月もしないうちに「これは最高だ」と言ってきた。バイクのおかげで見知らぬ土地でもすぐに仲間が出来たようだ。ツーリングを通じて今時珍しい、世代の違う縦のつながりが自動的に手に入る。私以上のご年配から年下の高校生まで、いろんな話が出来て充実した学生生活を送れたようだ。
 バイク乗りには共通の感覚が宿る。それは一緒に走っていても、単騎毎の自己責任で行動していると言う感覚だ。雨、風、疲れ、それらを皆共通に味わって知っている。だからみんなで気遣い、つらさも楽しみも共有出来る不思議な連帯感が直ぐに出来上がる。そんな息子も案の上飛んで骨折、バイクもオシャカ。原因は結局「調子に乗った」ということだろう。砂が浮いていてもそれを予見対処出来なかっただけのことだ。在学中はジムカーナや白バイ隊主催の安全講習などに参加して、積極的にバイクの乗り方を勉強していたらしい。最近は一緒にツーリングしてもどうやら、呼吸が合うようになって来た。
 私がバイクを通じて教えてもらったことを、同じように息子にも体験してほしい。言葉だけでは通じなくても、同じバイク乗りを通じてなら共感できる。人生の説教じみたアドバイスも「そう言うことか!」とバイクを通じてわかって来る。

−バイクが私に教えてくれたこと−
 私はバイクを通じていろんな幸せをもらって来たと思う。確かに危ない面もある。けれど私のバイク仲間は未だにバイクを伴侶としている。事故を起こさないように、技術も磨くし、交通の流れを考える議論もする。知り合いになった若いバイク仲間には「バイクが好きなら、絶対にバイクを悪者にするな」「バイクの上手は速さではない、無事に帰って来るためのあらゆる力が試される」そんな言葉を通じて、バイクに恩返しをしたいと思っている。
 もうじき定年になる同級生に会った。ぼちぼち自由にバイクでも乗りたいと免許を取ったらしい。「どんなバイクが良いか、○○○はどうだろう?」と言う。「悪くは無いが最初は250ccのオフロード系バイクにしな」と言った。「バイクがおっくうにならず、気楽にどこへでも出かけて行けるようになってから、次のバイクは考えればいいよ」とアドバイスした。今年帰省した時、彼は250ccのモタードで現れ「とても楽しい」笑った。
 私は思う。バイクに乗れば、いつでも自分と向き合う世界に行ける。だから一度はバイクに乗る機会を持って、それを手に入れてほしいと思う。けれども結果の重大性がリアルに実感出来ない若い世代では、一人で走らず経験豊かな先輩と始めてほしいと思う。今の時代に残された貴重な、言い訳の出来ない自分と向き合う世界。厳しいけれどバイクの旅は、生きている素晴らしさを再確認させてくれるだろう。

以上


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特 別 賞

作品タイトル
「赤い旧車と夏休み」

仙田 和之 さん

(あらすじ)
大学二年の5月に自動二輪免許を取得した。真っ赤な旧車を買って人生初バイクを人生初のセルフレストアした。やっと乗れるようになってからは、どこまでも行ける気がした。
そんな気分になった束の間、大学は夏休みになった。無謀にも石川県の自宅から福島県の実家に修理仕立てのバイクで帰省する計画を企てた。富山県に入った時、突然止まるエンジン。そこには徒歩で石川県の自宅まで帰宅すること決心した自分がいた。

(本文)
 バイク乗りである二つ上の兄から、「楽しいから」という理由で半ば強制的にバイクの 免許を取ることになった。普通免許は持っていたが原付きスクーターにも乗ったことがなかった僕には、兄の「楽しい」という言葉にあまり信ぴょう性を感じなかった。しかし、申し込みをすませ、いざ教習車に乗った瞬間、兄の言葉の意味は否応なく体全体で感じとれた。
 バイクの免許を取ってから、人生初のバイク選びをした。アメリカン、フルカウル、それはそれはいろんな車種をインターネットで見て、その都度好みが変わっていたのを覚えている。そんな時に、ようやく見つけた一台は、いよいよ見積もりを出そうかなというところで、他の人に売られてしまった。非常に悔しく落ち込んだ。見かねた兄は僕にある一台を進めてきた。紹介されたURLを開いて見てみると、某オークションサイトにつながった。そこに表示された車両は1974年式の2スト125ccであるYAMAHA,A-7。2スト、旧車、オークション経由という初心者殺し3点セットの代物で、初バイクという観点から見てみればあまりにもかけ離れたバイクであることは初心者の僕でも分かった。
 だがしかし、前オーナーが少しカスタムしてあり、カフェレーサー風のスタイルになっていた。見たことなかった形ではあったが一目惚れした。車両が届いてからは案の定修理の連続だった。知識はネットでかき集め、時に旧車乗りの兄に聞きながら、地道に自分の力で修理していった。まともに走るようになったのは購入してから、2ヶ月弱経った頃だった。初めて走った道は。今思うと近場を散歩した程度だったが、当時の自分にとってみれば、バイクと共に走った道は河川敷、住宅街、市街地全てが新鮮だった。それこそどこにでも行けるような気がした。
 気付いてみれば大学は夏休みになっていた。僕は無謀にも修理したばかりのバイクで実家がある福島県に帰省する計画を企てた。ツーリングマップルを買い、ルートを決める。片道100kmも走った事がないのに、下道だけで片道400km近く走るという計画。今考えてもぞっとする。当然、両親には反対された。兄はノリノリだった。

 帰省当日、バイパスを走るトラックに怯えながらも、何とか富山県に入った。富山県に入ってしばらく経った頃、信号待ちで止まるとガソリンの臭いがすることに気がついた。下をのぞき込むとガソリンがポタポタたれていた。問題がわからなかった僕は、急いで兄に電話をかけた。聞いてみるとキャブレターがオーバーフローしている可能性があるとのこと。応急処置として、キャブの下部(フロート室)を叩くとニードルジェットに挟まったゴミが取れて、解決するかもしれないと聞いて車載工具でカンカンカンと打った。そこからだましだまし乗って数キロ移動したが、とうとうどうしようも無い状態になってしまい石川県の自宅に帰ることを決意した。

 一週間前に親から強制的に入らされたJAFのロードサービスを使った。しかしJAFのレッカー移動距離は15km。近くにバイク屋さんは無く、石川県の自宅までとしても距離は全然足りない。取り敢えず15kmめいっぱい使って自宅方面に行くようにJAFの運転手さんにお願いした。5km以上は1kmごとに料金が発生してしまい、自宅まで行くと結構な金額になってしまう。当時は教習料金、バイク代、修理費用と学生にとっては金銭的に辛い状況で、15kmで留めてしまいました。
 レッカー移動を終えた僕は、どうしようも無いので2日掛けて徒歩で自宅まで行くことを決意しました。体力に自身があったからか、結構あっさり決断した。しばらくバイクを押して歩くと、陽も落ち始め段々家が減っていき、田んぼや木が多くなってきた。時間も時間だし、そろそろどこかで宿泊しなきゃと少し焦っていると、観光会社のお店を発見。近くの宿泊施設を紹介してもらおうと寄りました。事情を説明し、かえってきた答えは、近くには宿泊できるところは無いという残念な知らせ。不幸中の幸いで近くにバイク屋さんがあるらしく、電話をかけさせてもらえることになった。電話で状況を説明すると症状を実際に見てみたいと言われたので、観光会社の場所を説明した。通話を終えてバイク屋さんを待っている間、会社の方々は僕にお茶を出してくれたり、見ず知らずの僕を一晩泊めてあげようかなどと提案してくれたりと優しくしてくれました。本当にありがたかく、涙をこらえることに必死で、少し素っ気ない返事になっていた事を覚えています。
 バイク屋さんが到着し、その場で簡単に症状を見てもらった。結果はキャブの中のパーツを交換しないと直らないと言われた。キャブはネットで丸々一個購入して到着待ちであることを説明すると、パーツが来るまではどうしようもないので、バイクを石川県の自宅まで運んでやると言われた。自分では手に負えない状況と、辺りも薄暗くなっていたので、バイク屋さんのご好意を頂戴することにした。
 観光会社の方々にお礼をして、軽トラックの助手席に座り自宅を目指す。少し走ったところで僕はレッカー料金の問題に気がつく。大変失礼ではあるが、その時の僕は「凄い金額を請求されたらどうしよう…」などと思っていたため、怖くてなかなか料金の話を切り出せなかった。勇気を振り絞って料金のことを尋ねると、「こればっかりはしょうが無いからなぁ〜お金はいらないよ」と言われた。あっけにとられた後で、言葉を理解した僕は、今度ばかりはこらえきれず涙が溢れた。何とか普通の声でお礼を言って泣くのを我慢しようとするが、肩がひくついていたのでバイク屋さんにはバレバレだったと思う。バイク屋さんは察してか、それから何も言わず車を走らせていた。
 自宅付近の道についてバイクを軽トラから下ろす。後日お礼をしたいという事を伝え、バイク屋さんの住所等を聞いた。お金はいらないと言われたが、それでは自分の気持ちが収まらなかったので、5000円札を半ば押し付け気味に渡した。自宅までの帰り道、バイクを押し歩きながら僕は再び泣いた。自宅についた事を親に電話してまた泣いた。

 帰省中にバイク屋さんにお礼の品物を送り、帰省を終えて石川県の自宅に戻ると直ぐにバイクを修理した。それからはトラブル知らずで秋シーズン、真冬の寒い日も乗った。そうこうしているうちに春休みを迎えた。しばし東京に用事があり、春休みに入って早々高速バスで東京に向かった。そこで、やはり旅行会社とバイク屋さんに直接会ってお礼を言いたいと考えた僕は、東京土産をもって修理したバイクで会いに行くことに決めた。

 東京から帰った一週間後、おみやげを持ってツーリングの準備をした。始めにお世話になった旅行会社にお邪魔した。扉を開いて「以前お世話になった者で…」と全て言い終える前に、会社の人は思い出してくれた。お礼を言ってお菓子を渡した。帰りに記念にと写真を一緒に撮った。次に石川県の自宅まで送ってくれたバイク屋さんにお邪魔した。こちらは「こんにちは」と挨拶しただけで、気づいてくれた。自宅兼販売店の一室でお茶を頂き雑談した。大学生ということを言うと、「親御さんも心配するから、事故らんようにな〜就活もがんばりや」と言ってくれた。僕はその言葉を受けて「就職が決まったらまた改めてお礼しにきます。その時はもっとちゃんとした形でお礼します!」と約束した。

 初めて買ったバイクを直し、自分なりのカスタムもした。このバイクのおかげで技術面で多くのことを学んだ。古い車体のため興味をひくのか、他のライダーとバイク談義をする機会も多い。レストアの苦労話やカスタムの話で直ぐに仲良くなる。その度に面白い話が聞けたり、新しい知識やアドバイスをくれたりしてくれる。このバイクのおかげで、初めて会う人と話すのも抵抗が無くなり、共通の趣味を持つ人とはこんなにも、早く打ち解け合うことが出来るのかと感動したことを覚えている。
 今回の富山県のエピソードで、僕は人の暖かさを痛いほど痛感した。この体験からツーリングに行くときは車載工具に加えて、修理工具を少しバックに入れて持っていくようにしている。その理由は、自分が乗るバイクが古く、ある程度のトラブルに対処するためというのもあるが、何よりかつての自分が経験したように、道端で困っているライダーを助けられたら良いなと考えているからだ。自分が助けられた経験は幸運でごく稀な例かも知れない。しかし、自分でも誰かのピンチを救う手助けになれたらそれは素敵な事だと考えている。一度白山のほうにツーリングに行った時YB-1が歩道に止まっていたので、声をかけるとクラッチワイヤーが切れたらしく、応急処置としてバイスプライヤーとガムテープで直したところ、大変感謝された。クラッチワイヤーの応急処置はこの時初めて行ったが新たな技術が身についた瞬間でもあった。このように助けた経験は相手にも、自分にもプラスの経験になると思っています。
最後に、まだまだ初心者ライダーで運転技術も低いですが、これから何十年とバイクと共に歩んでいきたいので、安全運転の意識はいつまでも忘れないようにしたいです。
今日も少しの工具をバッグに詰めて君と走る。

以上

P.S
現在2台目のバイクに73年式の初期型RD250を買いました。もちろん不動車で(苦笑い)。ほぼ全ての箇所をセルフレストアして今では元気に走るようになってます。


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