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連載/クルマの楽しさ、素晴らしさとは


写真
富士グランドチャンピオンレース(1973年)

一枚の写真に込められた人間ドラマとクルマの素晴らしさ

[JAMAGAZINE編集室]

[第58回]

報道写真家をめざしていたときにモータースポーツに出会い、国内の各二輪車メーカーの仕事からバイクレースを撮るようになり、ついには世界最高峰のレースであるF1の世界を撮り続けるようになった世界的カメラマンの原富治雄(はらふじお)さん。

FIAパーマネントパスを取得していた原さんのこれまでの経歴や体験したことをお聞きしながら、クルマに対する考え方、自動車レース・F1の魅力、そして写真に込めた思いをお聞きしてきた。

●子どものころのクルマやバイク

長年、世界中のモータースポーツ写真を撮影してきたカメラマンの原富治雄さん。クルマやバイクに興味を持ったのはいつのことだったのかを、まずは伺ってみた。

「昭和25(1950)年生まれで、私が子どもの時代はクルマやバイクを一般の人が簡単に買える時代ではありませんでした。私は新宿生まれの新宿育ちで、近所にはお金持ちの人がいて『陸王』に乗っていたんですよ。あと、新宿という土地柄、普通の人よりもクルマに接する機会は多かったし、当時では珍しいクルマを目にすることも多かったですね。それで、格好いいなと憧れの眼差しでみていたのですが、自分が将来クルマを所有するのは無理だろうと思っていました。同じように、自分が海外へ行くなんていうことも、夢のまた夢の時代だったのです。そんな時代ですから、自分で免許を取得しようとか、海外旅行なんていうことは思ってもいませんでした」

●カメラマンの道への転機

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全日本モトクロス 菅生大会(1976年)
原さんの幼少時代は、戦後の復興が進んでいたものの、クルマやバイクは高嶺の花であり、まだまだ庶民にとって身近な存在ではなく、憧れのものであった。多くの人が、将来仕事で成功して、いつかは自分もクルマやバイクを所有するということを夢に描いており、発憤材料のひとつとなっていたのである。その時代を歩んできたひとりである原さんは、高校を卒業後、就職をしてサラリーマン生活を送っていた。

「サラリーマンを3年間やっていたのですが、なにか会社勤めはもの足りないと思っているところがあったのです。それで、インテリアデザインの勉強がしたいと考えて、仕事が終わった後に夜間のデザイン学校に行こうと思い、願書を書いて学校に持っていったら、偶然、会社の先輩に会ったのです。先輩は、その学校で写真を学んでいたんですね。それで先輩から、何をしに学校へ来たのと聞かれたので、インテリアデザインの勉強をしようと思って願書を出しに来たことを言うと、写真の方が面白いから写真にしろと言われたんですよ。そのときは、現状の生活の不満から、何か新しいものをやりたいという気持ちが強かっただけだったので、先輩の勧めに乗って願書をインテリアデザインから写真に変更してしまったのです。当時、自分は写真にほとんど興味がなかったので、本格的なカメラも持っていなかったのですが……(笑)」

こうして、昼間は会社で働き、夜は写真学校で学ぶ忙しい日々を過ごした原さん。学校で写真のことを学ぶうちに、写真の面白さを知り、どんどんのめり込んでいったという。では、当時はどのような写真を主に撮っていたのだろうか。

「学校では、1年生のときに基礎的なことを学びました。2年生になると商業写真と報道写真に分かれたのですが、1970年代は学生運動が激しい時代だったこともあり、自分は社会派でいきたいと、迷わず報道写真を選びました。そのため当時、撮影していたのは街中の非日常的な風景や学生運動などを被写体としていました」

●自動車レースとの出会い

そんな状況の中、1969年に友達から富士スピードウェイでレースがあるので、一緒に観戦へ行かないかと誘われ、原さんは友達のクルマに同乗して初めてのレース観戦へ行くこととなった。

「TVでインディなどのレースを観たことはありましたが、サーキットでのレース観戦は初めての体験で、レースっておもしろいなと感じたのです。そして翌年も、友達が行くと言っていたので、一緒に連れて行って欲しいと頼んだのです。そのときに、一眼レフカメラはあっても望遠レンズは持っていなかったので、写真学校の仲間でスポーツ写真を撮っている人に望遠レンズを借りていき、観客席からレースを初めて撮影しました。写真を撮影したこともあり、レースに興味を持つようになり、その年は結局4レースくらい行きましたね。1971年には、もっとレースと真剣に向き合おうと考えてレース写真を撮影し、それを自分の作品としてまとめました」

●プロカメラマンとしての第一歩

写真学校卒業後、勤めていた会社を辞めて写真学校の助手として働いていたとき、知り合いからバイクメーカーの広告写真を撮影している広告代理店を紹介される。しかし、当時は報道カメラマンをめざしていたために商業系の写真にはほとんど興味がなかった。ただ、趣味でレース写真を撮影していたこともあり、入社試験を受けることにする。そのときに作品として持って行ったのが、1971年のレース写真を作品としてまとめたものであった。

「作品をみた会社のディレクターに、キミの作品は面白いね、良かったらウチに来なさいと言われたのです。それで入社することになったのですが、入社1週間後にバイクメーカーのアジア向け輸出車のポスター撮影を任されたのです。これは、オープンロケの撮影だったので、これまでの知識と技術で何とか無事終えたのですが、その1週間後にはスタジオ撮影に入りました。初日はアシスタントをしたのですが、2日目になると先輩カメラマンは別の仕事があると言っていなくなり、私が撮影をすることになったのです。さすがに、スタジオでバイク撮影をした経験はなく、商業写真の経験もほとんどなかったので、この写真は再撮影になってしまいました」

●国内から海外へ

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デイトナ200マイルレース(1977年)
広告代理店のカメラマンとして、バイクの広告用写真を撮影しながらスタジオ写真の技術を習得していく。まさに実践で学ぶ時代であったと言える。広告代理店に2年間勤務した後、フリーカメラマンとして独立する。そして、先輩カメラマンの口利きでサーキットのプレスパスを取得できるようになっていたので、週末になるとサーキットへ行っていたという。

「仕事で撮影していたのはバイクのモトクロスレースだったのですが、休みの日には自分のお金でクルマのレースを趣味として撮影しに行っていました。そんな中、バイク雑誌の人たちと交流ができるようになり、少しずつ雑誌の撮影もするようになり、1977年に初めての海外レースとなるバイクのデイトナ200マイルの撮影に行きました」

そこから本格的に雑誌の撮影をするようになり、クルマも購入して行動範囲も広がっていっていたという。さらに、あるメーカーのモータースポーツカレンダーの仕事が舞い込んできて、1979年にイギリスのシルバーストーンで行われるバイクの世界グランプリの撮影へ行くチャンスを得る。

「そのときに、せっかく行くならその前後にあるF1も撮影しようと思ったのです。それで、F1のオランダGPとイタリアGPに行きました。1976、1977年に富士スピードウェイで開催されたF1取材の経験はしていましたが、やはりヨーロッパで開催されているF1は別格でしたね。なぜF1がモータースポーツの頂点と呼ばれるのかを肌で感じることができました。空気が違うんですよ。とくにフェラーリの地元であるイタリアGPは、ジョディ・シェクターとジル・ヴィルヌーヴがワン・ツーフィニッシュを決めたこともあり、そのときの観客の熱狂ぶりは本当に凄かったです。これが、本当のF1であり、観る人を熱狂させるチカラを感じました」

●F1でのチャレンジ

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F1モナコグランプリのアイルトン・セナ(1993年)
F1イタリアGP取材までは、バイク関係の撮影が仕事の中心となっていて、クルマのレース撮影は趣味的部分が強かったが、クルマのレース撮影をメインの仕事にしようと原さんは決意する。それも、ターゲットはF1である。

「コマーシャルの仕事も、じっくりと自分の作品を撮るという意味ではおもしろさがあります。陽の光を考えて、あと1時間待てば、いい光の加減の写真が撮影できるなど、自分のこだわりで撮影できる部分があります。しかし、レースはタイムスケジュールが決まっており、自分で撮影したい条件下で行われるわけではありません。晴れのときもあれば、雨のときもあり、その一瞬たりとも逃がすことはできません。スタジオ撮影とは違い、撮り直しはできませんから常に自分との勝負になってくるのです。それをモータースポーツの世界の頂点F1でチャレンジしたいと思ったのです」

●なぜF1は人をひきつけるのか

自分の夢に向けてチャンジする精神を常に持ち続ける原さんは、自分の撮りたい作品を追いかける。やりたいことができるのがフリーの特権と考え、1983年から年に数回ヨーロッパへ行きF1を撮影するようになる。そして1987年からはついにF1全戦を撮影する。では、F1のどのようなところに魅了され、被写体として追い続けるようになったのだろうか。

「常になんでという疑問を持ち続けて撮影することを大切にしていました。例えば、イタリアGPですと、なぜ観客はF1、特にフェラーリに熱狂するのだろうか、ということを考えていたのです。日常生活ではあり得ない興奮をモータースポーツ、中でもF1で知ってしまったので、なぜこんなに観る人を魅了させるのか、なぜ観る人も一生懸命になれるのかということを自分自身知りたかったのでしょう。というのも、自分はどちらかといえば冷めたタイプなので、相反する人たちを被写体に選んだのだと思います」

●みんなが観ていない視点で

その答えを見つけるために撮影し続ける中で、つかんだことがことがあるという。

「あるとき先輩カメラマンから、皆が前を向いているときに、ひとりだけ後ろを向いているという勇気は凄いと思うよ、と言われたのです。私が思っていたのは、そこには何かがあるはずだし、そこを自分で感じてシャッターを押すことが、その人の表現であり感性なのだということです。F1でも、いまは安全性などの問題もあり、撮影エリアなどが細かく規定されていますが、昔はかなり自由だったので自分の思った撮影がかなりできたし、自分ひとりだけ後ろを見るという感性もあったから楽しかったのです。レースは、コース上ではドライバーが腕を競っていますが、カメラマンもコース外で勝負をしているのです。それがF1になると、世界各国のカメラマンが撮影にきていますから、世界を相手に写真競い合うことができたのです。だから私は、極力、他のカメラマンの作品を見るようにしていました。凄いなと思うものがあったら次は負けないようにと努力をする。そうやって、いい作品は生まれていくものなのです」

●行間を伝える写真を

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F1オーストラリアグランプリ(2009年)
原さんが、レース写真を撮影する上で大切にしていたのは、コース上における一瞬の走りや迫力あるバトルシーンだけではない。作品として捉え、その裏側にある文章で言えば行間を伝えられる写真を大切にしていた。そのため、この写真は前の年に撮った写真が背景としてあるからこそ生きてくるんだねと言われるという。

「撮影した写真のみでなく、すべての作品につながる意味合いを、写真を観た人に感じてもらえばと思っていました。だから走っている写真よりも、人間模様、ドラマに興味を持ち、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、という部分を伝えるための写真を撮りたいと思ってきました。いまでは、チームとドライバーのやり取りは無線システムを利用して行っていますが、当時はドライバーがヘルメット越しにメカニックと直接話し合いをして、感情を剥き出しにするシーンを撮影できたのです。常にレーシングスーツを着たドライバーがパドックをウロウロしている、キャンピングカーでファミリーとともに転戦してくるドライバーがいるなど、常に生身の人間ドラマがF1の世界でも繰り広げられていました。それが、いまのF1は秘密主義的な部分が強く、閉鎖的になってしまい、アナログ世代の私にとっては時代の変化が少し残念で、想い続けてきた被写体としての興味が変わってきたように思います」

●バイクやクルマはいつの時代も人々を魅了するもの

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バイク・クルマの魅力、F1の魅力、
写真の素晴らしさを語る原さん。
AJPS (日本スポーツプレス協会) 会員
JRPA (日本レース写真家協会) 特別会員
こうして長年、F1の最前線で撮影をし続けてきた原さんは、2009年を最後にF1カメラマンからの引退を決意する。なぜだろう、という疑問を持ち続け人間模様を撮影してきた数々の作品は、観るものを引きつける。他のカメラマンにはない魅力を感じさせる写真が、原さんにしか撮れない作品と言われ愛されてきた理由だろう。現在は、モータースポーツ撮影の第一線から退いてはいるが、トークショーや写真展などを年に数回開催するなどして、撮り続けてきた作品の思い、その写真に隠された秘話などを多くの人々に伝えている。

「これからカメラマンをめざす人は、初めから諦めるではなく、高い位置に目標を定めて、それに向けた努力をしてほしいですね。そして、夢を語り合える仲間を作ることも大切です」

と原さんは語る。バイクやクルマが憧れだった時代に生まれ育ち、モータースポーツと出会ったことにより目標を見つけ、最高峰のF1の現場で長年撮り続けてきた人の言葉だけに重みがある。

原さんは、バイクやクルマはいつの時代でも人々を魅了するものであると言い、その魅力を最大限に引き出すモータースポーツを愛する気持ちを育てることも忘れてはいない。

(JAMAGAZINE編集室)

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